ゾージャ
妖怪男はナキータを抱き、野山を越えてかなりの低空を飛ぶ。速度が上がったのか風の音がすごい、だから妖怪男も黙っている。飛びながら見える景色はおもしろかった。山を低空で飛び越えると平地が眼前に広がる、川が流れていて橋が架かっている。
突然、景色が変わった。いきなり雪が積もった険しい山々が広がる所へ出た。そこは日本とは思えないような所だった。空中に入り口のようなものがあってそこを通過したような感じだ。たぶんここは妖怪が住む世界なのだ。
今井は景色を覚え始めた、もし、ここから逃げるときはここへ戻ってこなければならない。たぶん、ここに人間界への入り口があるのだ。もちろん逃げることが出来ればの話しだが。
青空を背景に広がる山々の景色は息を飲むほど美しい。気温が急に下がって当たる風が冷たい。あちらこちらの山の中腹に赤い家が建っている。どの家もものすごい急斜面に建っていて道路などは見当たらない。
やがて、そんな家の中の一軒が近づいてきた。
大きな家だ。岩山の中腹に太い柱を何本も立ててその上に家が建っている。赤い屋根の三階建てで綺麗な家だ。
家の正面には広いテラスがある。彼はそのテラスに降り立つと抱いていたナキータをおろした。
いよいよ妖怪世界のど真ん中に来てしまった、もう、記憶喪失のナキータを演じるしか道はなかった。
「さあ、ついた、ここが僕達の家だよ」
彼はナキータに家を見せるように手を広げた。
しかし、今井はテラスの方に気をとられていた。張ってある板が隙間だらけなのだ。工事が下手で出来た隙間ではなくて模様のように隙間がある。しかもその隙間が広い、人が簡単に落ちるような隙間なのだ。
隙間から真下の断崖が見えている。この家はものすごい急斜面に建っているのだ。
彼は歩き始めたが、今井は隙間が怖くて男の腕にしっかりとつかまった。今回も男はナキータの動機を誤解しているらしくうれしそうだ。
「この家は覚えているかい?」
男がやさしく聞く。
「いいえ……」
小さな声で答えた。いよいよナキータの演技をしなければならないのだがナキータを知らないのだ。どう演じればいい。
家の正面には大きな扉があった。男はそれを押し開けて中に入った。
そこは広間だった。大きな調度品が置いてあり立派な部屋だった。もちろん床は普通の床で絨毯が敷いてある。やっと安心して今井は男の腕から手を離した。
奥の方に若い女性が立っていたがナキータを見て表情をくずした。
「ナキータさま!!」
彼女は飛ぶようにナキータの所にやってきて、ナキータの手を握った。
「封印をお破りになったのですね。さすがナキータさまです」
彼女はうれしそうにナキータの手を握って離さない。しかし、どう反応したらいいのか分からない。この女は誰だろう。
「ミリーを覚えている?」
男が聞く。
彼女はミリーという名前らしい。しかし、それ以上なにもわからない。
「いいえ……」
小さな声で答えるのがやっとだった。
「ナキータは記憶喪失なんだ。無理もないと思うよ。あんなところに四年、たまらなかったと思う」
「そうなんですか……」
ミリーが驚いている。そして哀れむようにナキータを見た。
「でも、大丈夫ですよ。ここでいつもの生活に戻れば、全部思い出しますよ」
「そうだよな」
男がナキータの肩に手をまわすとグッと抱き寄せた。
「心配しなくていい。ここで生活すればすべて思い出す」
「ええ……」
なにか言わないといけないような雰囲気なのでとりあえずそう答えておいた。思い出すわけはないのだが。
男はナキータの肩を抱いたまま、どんどん奥へ入っていく。やがて、こじんまりした居間のような部屋に入った。大きなソファーのような椅子が置いてあり、一人用の椅子も幾つかある。窓からは雪をかぶった綺麗な山が見えていた。
「さあ、ゆっくりして」
彼はソファーのような長椅子にからだをのばして座った。
男から一番離れた所に椅子があった。今井はその椅子に浅く腰を下ろした。
「四年間、長かった。もう君は死んだと思っていた。よかった、本当によかった」
彼は嬉しそうだ。
「君も四年間辛かっただろうな、本当によくがんばったよ」
今井はこちこちになって男を見つめていた。どう動いたらいいのかまったくわからない、ナキータになりすますなんて不可能に思えた。
彼はナキータが固くなっているのを見て
「こっちへこいよ」と手招きをする。
あまりよそよそしいのも変だと思えた。そこで、そうと立ち上がると彼の横に少し離れて座った。
男はナキータの腰へ手を回すと、ぐいっと引き寄せた。今井は彼にぴったりとひっついてしまった。
「ナキータ、もうなにも心配しなくていい、ここがおまえの家だ」
男がナキータを安心させようと懸命になっているのがわかった。だから、それに合わせないとまずいかもしれない。今井は笑顔を作ろうとしてみたが、たぶん、ひきつった笑顔になってしまった。
「俺をこわがっているのか?」
今井は思わずこくんとうなずいてしまった。
「そうか、記憶がないから、ここが始めての場所に感じるんだな。それに俺のことも」
彼は座り直した。
「俺は、ゾージャ、君の夫だ」
なんとなく予想はしていたが二人は結婚していたのだ。それにやっと男の名前がわかった。
「ここが俺たちの家で従者が四人いる」
従者とは何のことだ、使用人みたいなものか、さっきのミリーも従者なのかもしれない。
「俺はゴルガ様の家臣で俸禄をもらって生活している」
徐々に意味が分からなくなってきた、家臣というからには封建制的な社会なんだろうか。
「俺自身も家臣を持っている二十一人いるんだ」
ゾージャは自分の仕事の事を説明してくれる。どうやら、ゴルガという妖怪がこのあたりの領主でゾージャは彼の家臣らしい。さらに彼自身も家臣を持っていてゴルガから指示された仕事を家臣たちとやっているらしい。今井はそんなゾージャの話を固くなって聞いていた。
しかし、不思議なことに急激にお腹が空いてきた。脂汗が出るくらい空腹を感じる。ナキータは封じ込められてから四年間なにも食べていないらしい。だからナキータのからだに慣れてくると本来感じるはずの空腹を今井も感じ始めたのだ。しかも目もくらむほどの激しい空腹だ。
「ゴルガさまはな、この辺一帯の……」
ゾージャは楽しそうに話している。
「あのう……」
今井は思い切って話に割り込んでみた。
「なに?」
「お腹が空いているんですけど……」
できるだけかわいく言った。
「えっ、なにも食べてないの?」
ゾージャがびっくりして聞く。
「ええ…」
できるだけ愛くるしくうなずく。
「ごめん、すぐ準備させるよ」
ゾージャが飛び上がるようにして立ち上がると部屋から出ていった。ゾージャもナキータを大事に思うならお腹が空いているかもしれないという事ぐらい気がつけよ。
ともかくゾージャがいなくなって一人になると、やっと一息つけた。ごちごちになっていた身体を少し動かしてみた。これからどうなるのかまったくわからない。死刑台の上に立って板が落ちるのを待っている気分だ。ミスをしてナキータじゃないことがバレてしまったら、そこで殺される。
ゾージャはすぐに戻ってきた。手に果物が入ったかごを持っている。
「少し待ってて、すぐできるから、それまで、これでも食べて」
今井は彼がまだ手に持っているかごからりんごを取るとかぶりついた、それほどお腹が空いていた。
ゾージャの事も忘れて夢中で食べた。あっと言う間に全部食べてしまった。
お腹が膨らむと少し落ち着いた。やっと笑顔でゾージャを見上げた。
「わらったね」
ゾージャはうれしそうだ。
「おいしかった」
今井は自分でも驚くほど普通に喋れた。
「もっと持ってこようか」
まだ、いくらでも食べれそうだったが、何かするとそれだけミスをする危険も増える。危険そうな事は先へ延ばそう。
「いえ、準備ができるまで待つわ」
女の話し方と思っている話し方で言ってみた、声が女の声なので違和感は感じない、ただ女って普通どう話しているんだろう、すこし違うような気もする。
「四年たっても君は変わっていない、かわいい」
ゾージャはナキータの髪をなで始めた。
彼が腰をずらしてナキータの横にぴったりと座ったが、逃げるわけにもいかない。
彼はナキータの肩に手を回して引き寄せる。今井はゾージャにぴったりと寄り添ってしまった。脂汗が出てきた。
「君が戻ってきてよかった、この日をどんなに待ったことか」
彼はナキータの髪にキスをする。今井はじっと耐えていた。
「君がいない四年間は寂しかった。毎日会いに行ったんだ。でも、君の方が辛かったよな、あんな狭いところに封印されて」
彼はナキータの髪に自分の顔を埋めた。
「もう大丈夫だよ、これからはここで今まで通りの生活が始まる」
ゾージャがナキータを押し倒し始めた。まずい展開だ。しかし、二人は夫婦なのだ。拒むわけにもいかない。
「失礼します」
突然、部屋の外から声がした。
あわててゾージャがナキータを離した。
扉がゆっくり開いて、ミリーが入ってきた。
「簡単なものですけど、食事の準備ができました」
よかった、救いの神だ。
「ありがとう」
ゾージャが立ち上がると部屋から出て行く。
「どうぞ」
ミリーがナキータを案内する。
どうやら食事はどこか別の場所に準備されているらしい、今井はゾージャについて行った。