ナキータは強い
今井はしばらく自分の部屋でじっとしていたが、もう何事も起こらない。マラドーラは諦めて行ってしまったらしい。しばらくすると退屈になってきた。いつもだったら会社で働いている時間だがここにいるとすることがない。
仕方がないので家の中をぶらぶらと歩いてみた。これから住む所がどんな所か知っておきたかった。
大きな家だった。部屋が数え切れないくらいある。時々扉を開いて部屋の中を覗いてみた。荷物がいっぱい入れてある部屋もあれば、がらんとした部屋もある。
三階は全体が一つの広い部屋になっていた。大勢の人が集まれるようになっているらしい、正面には段があって少し高くなっている。そこに椅子が置いてあって玉座みたいだ。ここにゾージャが座るのか。
壁には武具と思われるものが並んでいる。ここは道場のような所かもしれない、戦いの練習をするのだ。
壁に掛かっていた槍を一本手に取ってみた。先が三つに分かれていて中国の槍を連想させる。
「何をしておいでです?」
ふいに、後ろから声がした。
びっくりして振り向くと下僕のナカヌクが立っていた。彼はきちんとした身なりでどこか風格がある。
「いえ、どんな家かな、と思って」
今井はてれ笑いをしながら答えた。
「記憶を失ってお出でですから、ここが始めての場所にお感じになるんですね」
優しそうな声だった、どこか頼りになりそうな男だ。
「ここに住んでいたのかなあ…、って思って歩いていたの」
まあ、適当に話を合わせておいた。
「ここには七年お住まいでした。もちろん封印されていた期間を除いてです」
「七年…… つまり、ゾージャと結婚して七年ということね」
「いえ封印されていた期間がありますので。その期間を含めると九年です」
ナカヌクは笑顔で答えてくれる。
ゾージャと結婚して九年になるのか。
「あたしたち、どんな夫婦だったんですか?」
「大変仲睦まじいご夫婦でした。ただ、最近は…… その、ナキータさまがゾージャさまに飽きたような所がありましたが……」
まあ、ナキータならそうかもしれない。不意にナキータがどんな女だったのか聞いてみたくなった。
「私は…… かなり、ひどい女なんですか?」
今井は真剣な顔で聞いたが、ナカヌクが笑い出した。
「これは、また、なぜ、そのような……」
「だって、私は夫が仕事に行くのに寝ているんですよ」
ナカヌクは首を振った。
「それはゾージャさまもご了解の上のことです。ゾージャさまの登城は朝が早いですがナキータさまは朝がお苦手なんです」
「そんなの、言い訳です」
つい、ナキータの事を人ごとのように話してしまう。
ナカヌクは笑いをこらえるのに苦労している。
「それがナキータさまのいいところでございます」
なにがいいところだ。見え透いたお世辞だ。
「ゾージャが怒らないからナキータが…… いえ、私が図に乗るのよ」
つい、自分の事なのにナキータと言ってしまった。
「同感です。ゾージャさまがもう少しと思う事もございます。まあ、ゾージャさまがナキータさまにベタ惚れなのが弱い所ですな」
「この顔だもんね」
ゾージャが惚れるのも無理はないとも思う。
ナカヌクは我慢出来ずに笑い出した。しかし、すぐに笑いを抑えると。
「では、あすからお見送りされてはいかがですか?」
と頭を下げた。
「そうするつもりです」
今井はきっぱりと答えた。
今井はいつしか自分が理想とする女性をナキータで演じてみる気になっていた。
「それがよろしゅうございます。ゾージャさまもお喜びになられます」
ナカヌクはナキータが手に持っていた槍に目を止めた。
「やはり武具に関心がおありなのですね」
今井は自分が手に持っているものに見た。そうだ、槍を持ったままだった。
「いえ、これは、ただ持ってみただけです」
「ナキータさまは武術がお好きで、ここで戦いの練習をされているのを何度もお見かけしたことがございます」
「武術…」
ちょっとビックリだ。
「私って、おてんばなの?」
「いえいえ、そんな事はありません。ただ、ナキータさまは本当はお強いのではないかと思っております。男は自分より強い女を敬遠するものです。だから、ナキータさまはゾージャさまより弱いふりをしていらっしゃるだけで本当はゾージャさまより強いように感じております」
「まさか」
あのゾージャよりナキータの方が強いなんて考えられない。
「ゾージャってかなり強い妖怪なんでしょ」
「もちろんでございます。ゾージャさまは牙城隊の頭を務めてありますから、ゾージャさまより強い妖怪と言えばもう数えるほどしかいないでしょうね」
「牙城隊?」
すぐに分からない単語が出てくる。
「領主のゴルガさまはご自分の家臣を十隊に分けてあります。その中の一つでございます。ゾージャさまは牙城隊をゴルガさまから預かっておいでです」
ちょっとビックリである。
「ゾージャって、たいしたものなのね」
なぜか、すこし誇らしい気持ちになる。
「それでも、私がみるところナキータさまの方がお強いのでは、と思います」
「そんなバカな」
きのう、ゾージャと飛んだときゾージャにまったく太刀打ちできなかったし、それに、さっきだってあの男にかなわなかった。
「もちろん腕力ではとてもかないません。ナキータさまは女ですから、ただ妖力の強さは桁違いにお強いようにお見受けしております」
「妖力?」
「はい、ここで練習されている時のナキータさまから時々すさまじい妖気を感じる時がございます」
本当だろうか。褒められると悪い気はしない、どこかうれしくなってしまう。しかし、強いなどと言われても実態がついてきていないから何の意味もない。今のナキータは明かりを消すことすらできないのだ。
「特に魂を扱う妖術に関しては非常に強い妖力をお持ちです。ナキータさまは魂を好物とされている関係で、この妖力は秘密にしておられませんので皆が知っております」
「はあ……」
ナキータって強いのだろうか。まあ、強いと思っているならそう思わせておいた方が何かと都合がいいだろう。
今井は再び槍を持ったままなのを思い出した。こんな物を持っていると変な誤解をされてしまう。
「ここはなんなの?」
今井は槍を元の台に戻しながら聞いた。
「道場でございます。ゾージャさまがここで家臣達に稽古をつけていらっしゃいます」
「家臣?」
ぞーじゃに家臣がいるのか?
「二十一名の家臣がおります」
すごい、たいしたものだ。
「あなたもここで稽古をつけてもらうの?」
「いえいえ、私のような端妖怪は戦いなどいたしません」
「端妖怪?」
また、分からない単語だ。
「妖力が弱い妖怪のことです。私どものような端妖怪は妖力が強い妖怪にお仕えして身を守っていただくしか生きる道がございません」
「えっ、てことは、給料をもらってるんじゃないの?」
「キュウリョウ?」
今度はナカヌクが不思議そうな顔をした。この単語は妖怪には通じないらしい。しかし、と言う事は、彼らはお金をもらって働いているんじゃなくて、生きるために強い妖怪に仕えているのか。
「じゃあ、ここで働いているのは、ゾージャに守ってもらうため?」
「さようでございます」
ナカヌクは頭を下げる。
そうなのか、つまり労使関係じゃなくて主従関係なのだ。と、ふと、自分の事が気になった。
「私も…… ゾージャに守ってもらうためなの……」
ナキータも強い妖怪に守ってもらうために結婚しているのか?
「いえいえ、とんでもございません。ナキータさまは強い妖力をお持ちです」
「例の秘密にしてるやつ?」
「いえいえ、さっきの話とは別です。つまり、ナキータさまは強い妖力をお持ちの妖怪で私どものような端妖怪ではありません。おお、そうです。ミリーはナキータさまに守ってもらうためにナキータさまに仕えています」
「ミリーが」
ビックリである。
「ミリーはゾージャに仕えているんじゃないんですか?」
「いえいえ、ミリーはナキータさまがゾージャさまと結婚する前からナキータさまに仕えています」
そうなのか、ミリーはナキータに仕えているのか。
突然、ナカクヌが手を打った。
「おっ、そうです。あすの朝ゾージャさまをお見送りなさるのなら、朝食はどうされます?」
急に思いついたのかナカヌクが聞く。
「もちろん、一緒にたべるわ」
ナカヌクが嬉しそうな顔をする。
「それはよろしゅうございます。ゾージャさまがお喜びになります。さっそく、コックに手配しておきましょう」
「お願いします…… じゃなくて、お願いね」
「おわかりになってきたようですね」
ナカヌクが笑う。
明日は早起きしてゾージャを見送るのだ。ゾージャが喜ぶだろう。そして、ふと思いついた。
「私って、まだほかになにか、私がした方がいい事ってあります?」
今井は理想的な妻を演じるつもりだった。
そう言われて、ナカヌクは考えている。
「一つお願いがあります」
「なに?」
今井はわがままで自分勝手なナキータとはちがうのだ。
「ゾージャさまとご一緒の部屋で過ごされてはいかがでしょうか、ゾージャさまが一番お喜びなると存じます」
一瞬、ポカンと口を空けてしまった。一緒の部屋! それは困る。ここに来て自分の部屋があったことでどれほど助かったことか。ゾージャと同じ部屋になったら気の休まる暇がなくなってしまう。
今井は返事ができなかった。しかも、困ったという思いが顔に出てしまった。
「やはり、無理ですか?」
ナカヌクが失望したように聞く。
なんと答えたものか。
「考えておきます」
政治家みたいな返事になってしまった。
ナカヌクはまずい事を言ってしまったと思ったのか、気まずい顔をしている。
「それ以外では?」
聞いてみたが、もうナカヌクが答えるはずがない。
「いえ、やはり、ナキータさまは今のままがよろしいかと存じます」
ナカヌクは丁寧に頭を下げると、さらに少し会釈してそのまま去って行く。今井はそんな彼の後ろ姿を見送りながらため息をついた。
わがままなナキータのままの方が都合がいいかもしれない。